カートをみる マイページへログイン ご利用案内 お問い合せ お客様の声 サイトマップ
RSS
 

こども食堂の責任者

 長野の田舎から帰ってからしばらく何もできなかった。しかし5月12日にこども食堂の手伝いに行った。メニュ−は焼き肉丼とナムル、ワカメス−プ、寒天パパのデザ−トだ。「あら小林さん来て下さったの!無理かと思っていた」責任者の女性が驚いたように言う。5月は農作業が始まるので無理かも知れないと伝えていた為だ。「農作業の予定はすべて済ましてきましたよ」「良かった!それじゃお肉のカットとタマネギのカットしたのを炒めるのお願いします」

 ボランテイアの人は今回は少なく4名だった。鹿野さんは腱鞘炎になってしまって病院だそうだ。年配の人は無理をされずご自愛いただきたい。12時には用意が整った。「今日は来客は少ないね」呼び込みに立っている人が心配する。「何か行事があるのかな?」そんなことを話しているうちに子供たちが来始めた。「今日は焼き肉丼だよ!みんな食べて行って」そのうちに多くの来客があった。心配は杞憂であった。用意した70食はすべて無くなった。やはり美味しいメニュ−は喜ばれる。誰かがSNSで「こども食堂」のことを載せてくれたようだ。地域に開かれた教会として認知されてきている証拠かもしれない。

 13日の主日礼拝の代祷でこども食堂の責任者の女性が逝去者記念名を読み上げるとき涙声になってしまった。こども食堂立ち上げの一人伊藤さんの一周忌だった。心の優しい女性なんだとあらためて感動させられた。一生懸命ボランテイヤをしている素敵な夫婦だ。

山菜採り

 奈良旅行から帰ってすぐ長野の田舎へ行った。ソバの会の仲間から今年の山菜は早いので4月29日にすると連絡あったためだ。実際昨年よりは10日は早く山小屋の周りは16日にはほとんど雪は無かった。

 奈良旅行の最中に山菜採り達人より電話があった。「29日の朝6時半までに豊田の道の駅に来てくれ。そうすれば車に同乗していけるから!」「有り難う。必ず行きますから宜しくお願いします。」当日6時10分に道の駅に行くと既に私以外全員集まっていた。しかし今年は人数が少なく7名であった。

 行先は妙高に連なる山麓だ。ここはコゴミの山だ。雪が少なく昨年よりは近くまで車で行けた。残雪の中まだ丁度良いコゴミやフキの頭が採れた。1時間もすると3つのリックが一杯になった。「そんなに採ってどうするの?食べるにはほんのちょっとあれば良い!」友人が言うが「東京に帰って山菜好きな人にあげると喜ばれる。春の贈り物だよ。」

 残雪が残り青い空と新緑の緑の美しい大自然を眺めているとあらためて自然の偉大さに驚かされる。こんなきれいな景色は人間には到底作り出せない。自然に神が宿るのは本当だ。古来日本人は多くの神を祭祀してきた。その気持ちが良く分かる。

 山菜をいただくのは究極の自然食品だからだ。大自然の中で1年かけて育まれた山菜は人々を支えて来た。この恵みを春の特別な時に少しいただくのだ。山菜採り達人の言葉だ。彼は山ウドを崖に上り沢山採ってきた。それを皆に分けてくれた。来年も来れると良いな、、、。

薬師寺・平城宮跡

 4月25日 午後薬師寺へ向かった。薬師寺は唐招提寺とともに西ノ京と言われる地区にある。平城京の西に開けた所だ。秋篠川沿いに平地を走り唐招提寺を過ぎた所にある。薬師寺東塔は工事中であり見れなかったが西塔は6重に見える3重の塔で奇麗に建っている。たぶん東塔も同じような造りであろうと思われ、アメリカ人フェノロサが「凍れる音楽」と言った東塔の姿がしのばれる。

 薬師寺は持統天皇の病気平癒を願い天武天皇により発願され飛鳥の地区に建てられたが、平城京遷都(710年)に伴い西の京に移された。金堂には薬師如来坐像があり両脇に日光、月光菩薩が立っている。薬師如来は医王の仏様で私達の身体と心の健康を守ってくださる。新薬師寺と同じく現世救済の仏様だ。薬師寺の薬師如来は金色に輝く奇麗な美しい仏様であるが新薬師寺の薬師如来の方が私の心に迫る。

 修学旅行生とともに伽藍を回り、西塔をもう一度見上げて東塔の改修を期待しながら薬師寺を後にした。

 その後平城宮跡へ向かった。朱雀門が再建され、往時の広大な平城宮をしのばせる。唐の長安にならって碁盤の目に造られた平城京の大きさには外国の使節も目を見張った事だろう。メイン通りは幅約100m(実際は75m)もありそうで、朱雀門から大極殿まで朱雀大路が続いていたことが想像される。今はその中ほどに近鉄奈良線の線路が走っている。平城京は4km四方もあったようだ。

 奈良の友人に車で滞りなく奈良・飛鳥を案内していただいた。感謝である。お蔭で有意義な歴史探訪の旅になった。でもこれが最後の奈良の旅になるかも知れない。良い思い出が出来ました。

新薬師寺

 4月25日は興福寺、東大寺を巡った後、新薬師寺へ向かった。昨日飲み会の折板前さんも奨めたお寺だ。「新薬師寺は最近できた薬師寺ですか?」「名前は新でも奈良時代に出来ているんです。とにかく良い寺ですから行かれたら良いです。」

 新薬師寺は東大寺からそう遠くない春日山の山麓にある。車では細い道があり気を遣う。でも観光客はほとんどいなくて静かなお寺様だ。東大寺のある奈良公園から徒歩で来る人たちも多いようだ。歩いても15分くらいかもしれない。

 新薬師寺は聖武天皇の病気平癒を願って后の光明皇后が747年に建てている。光明皇后は藤原不比等の娘である。

 新薬師寺は派手さは無く、どちらかというと静かな地味なお寺だ。ところが本堂にある薬師如来坐像は薄暗いお堂の中で得も言われぬ輝きを放っているのだ。思わずその場に拝みこんでその威光に縋りたいほど有難味がある。自分も「どうか病気を治してください!」とお願いしてしまった。薬師如来の持つ本来の意味が良く分かった。この仏様ならどんな病気も治してくれそうだ。それだけ神々しく美しく有難味のある仏様だ。他の寺院にある薬師如来坐像とは一味も二味も違って見える。

 薬師如来坐像の周りには十二神将立像が置かれそれぞれ干支の守り神様になっている。私は自分の干支の前でろうそくを灯し祈った。薄暗い光明の中で見る十二神将達も趣があり有難味がある。本堂の配向が優れているのかも知れないが素晴らしい新薬師寺だった。

 ここも残念ながら写真撮影は禁止だ。本堂の外観写真だけを載せます。小さなお寺であるが最も素晴らしい薬師如来であった。

東大寺

 4月25日。 興福寺を巡った後、徒歩で東大寺に向かった。多くの観光客がバスを連ねてやって来る。修学旅行生も多い。しかし東大寺は広大で難なく沢山のお客を飲みこんでゆく。運慶・快慶の仁王像のある南大門から大仏殿まで人混みの中を進む。外人の観光客も多い。

 東大寺は聖武天皇の治世に全国に置かれた国分寺の総本山として大仏造営とともに建立されている。当時流行した疫病や災害・飢饉に苦しみこれらから民を救うため国家事業として大仏様の造営に当たる。752年に大仏の開眼供養が行われた。インドから僧侶が招かれ唐や新羅などからも使節が招かれ盛大に行われたようだ。その後鑑真や多くの僧侶も来日し読経したことだろう。当日も中国からと思われる僧の一団が大仏様の前で大きな声で読経していた。高さ16mもある金銅製の見事な大仏様だ。修学旅行の折も盧舎那仏の大きさと美しさに驚いたものだ。盧舎那仏とは仏像そのものが仏法を表しているとされる。釈迦如来は人間に仏法を説くために現世に現れた仏様で、薬師如来は現世救済、阿弥陀如来は来世救済の仏様と言われる。

 大仏殿を出て三月堂、二月堂へと向かった。二月堂はお水取り行事で知られるが階段を上がり回廊に出ると眺めが良い。奈良市街に平城宮跡の大極殿が見え、左側に生駒山が望める。

 光明皇后が聖武天皇の遺品を寄贈した正倉院や僧侶が仏前で戒律を守ることを誓う儀式が行われる戒壇堂には寄らず東大寺を後にした。

興福寺

 4月25日は興福寺を訪ねた。小降りの雨が降っていたが五重塔はやはり美しいシンボルタワ−だ。写真を撮る人が多い。私も写真を撮っていると一人の女性旅行者からシャッタ−を押してくれと頼まれた。「奇麗に撮れましたよ!」軽口を言ってカメラを返した。

 興福寺は大化の改新(645年〜)の主役だった中臣鎌足の山階寺をその子藤原不比等が710年に移築して造られた。大化の改新のもう一人の主役は中大兄皇子だ。天智天皇になっている。天智天皇から藤原姓を賜り中臣鎌足は藤原鎌足になっている。藤原氏はその後400年にわたり天皇家とともに貴族として政権の中枢に座る。蘇我入鹿を暗殺するというク−デタ−を成功させた勇気の賜物だ。興福寺は藤原氏の氏寺として絶大な力を持つようになる。

 五重塔の横にある東金堂には薬師如来坐像が安置され、両並びに日光菩薩、月光菩薩立像があり、周りに十二神将立像が配置され、四隅にある四天王立像が守っている。薬師如来は左手に薬壺を持っていることが多く現世の災いや苦しみを除き、病を治す現世救済の仏様だ。それに対し阿弥陀如来は西方の極楽浄土に導く来世救済の仏様だ。

 興福寺国宝館で目を引くのは5mもある千手観音菩薩立像だ。圧倒される思いだ。もう一つは教科書に載っていた仏頭も印象に残る。大化の改新で中臣鎌足側についた蘇我倉山田石川麻呂が建てた飛鳥の山田寺から迎えられた如来像の頭部だ。大変美しく白鳳彫刻の代表だ。そして何と言っても八部衆立像だ。八部衆はインドの神話の神々が仏教に帰依して守護神になった。阿修羅は戦う神だが優しい少年の像で人気がある。その憂いを含んだ顔は見ていて飽きないのだ。鳥の顔をした迦楼羅も面白い。その他貴重な彫刻が沢山残されている。

 三重塔の下に猿沢の池がある。古から変わらぬ池として知られている。そのままの姿であろう。古都奈良も永遠に、、、と思う。

法隆寺

 奈良旅行の4月24日は飛鳥地方を回った後、斑鳩の法隆寺を訪問した。法隆寺は聖徳太子と推古天皇が仏教の普及と聖徳太子の父用明天皇の請願を受け607年に建立している。仏法の隆盛ならんことを願って法隆寺となったようだ。

 538年欽明天皇の時代に百済の聖明王より釈迦如来像と経典が献上され仏教が伝来したとされる。有力豪族が争う未開の日本だ。仏教導入派の蘇我稲目と日本の古くからの神々が怒ると廃仏派の物部尾輿の争いを経て、蘇我馬子と聖徳太子が物部守屋を丁未の変(587年)で滅ぼすことで仏教が定着した。

 法隆寺は広大な敷地に本格的な伽藍様式を供え長い土塀で囲まれている。先ず目を引くのは金堂の横に建つ有名な五重の塔だ。安定感のある古い美しい塔だ。金堂には仏師止利の製作と言われる釈迦三尊像と用明天皇の為の薬師如来像と母のための阿弥陀如来像が安置されている。しかし薄暗く良く分からない。それよりも講堂にある大きな薬師如来像の方が金色に輝き見栄えがする。990年ごろの製作らしい。仏像は大きく美しいものが有難いようだ。

 法隆寺で一番印象に残ったのは百済観音像だ。長身ですらりとした繊細な美しさを持った観音様だ。百済から来たと思っていたがそうでは無いらしい。日本で造られたようだが良く分かっていない。この時代にこんな美しい観音様が造られたのには当時の人々も感嘆したことだろう。その後の日本の仏教美術にも大きな影響を与えたことは間違いない。

 高校時代の修学旅行で法隆寺に来た記憶が無い。たぶん行程に入っていたのではと思うが覚えが無い。仏教を通して日本の近代化を目指した聖徳太子の想いが感じられる法隆寺である。長い参道を駐車場へと歩きながらそんなことを思っていた。

素晴らしかった奈良・飛鳥の旅

 4月23日〜25日、奈良・飛鳥旅行に行って来た。大学時代のスキ-部の仲間が奈良に住んでおり企画が持ち上がった。高校の修学旅行以来の古都の旅だ。当時も奈良の大仏さんや薬師寺東塔、石舞台に感激した思いがあるが、今回も劣らず素晴らしい旅となった。

 奈良の友人はホテルの手配から訪問先、スケジュ−ルまで細かく設定してくれた。私の希望は日本国誕生の地飛鳥を回ることであった。飛鳥は奈良から離れており、今も古の風景がしのばれる山村で車でなければとても1日では回れない。友人は2月に購入したばかりの新車で案内してくれた。

 飛鳥に魅かれるのは豪族蘇我氏の日本国草創期に果たした栄光の役割が、乙巳の変(645年)とともに葬り去られる悲劇的な最後に同情を覚えるからかもしれない。蘇我氏は大陸からの渡来人を積極的に活用し産業や文化を興し、仏教を保護した日本国創設の恩人だ。蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿と大和朝廷の権力を握るが歴史上から葬り去られることとなる。歴史は勝者の都合の良いように書き換えられる。そんな憂いを含んだ飛鳥をもう一度訪問したかった。

 石舞台古墳は蘇我馬子の墓と言われる。なだらかな坂道をあがって行く途中に巨大な像が横たわるような大きな石で造られている。造られた当初は石は土で覆われ現在のようなむき出しではなかっただろう。覆っていた土が取り払われ、巨大な石があらわになると一層悲劇の主人公としての趣になる。栄光と悲哀の石舞台古墳だ。稲目の墓は石舞台古墳から600mほど上がったところにある都塚古墳らしい。2015年、それまで不明であった蝦夷と入鹿の墓は飛鳥の入り口近くにある菖蒲池古墳にあることが分かった。小山田古墳が発掘され蝦夷の墓と入鹿の墓が二つ並んで作られたと言う日本書記の記述と合致することになったのだ。小山田古墳が破壊されて蝦夷の石棺は入鹿の石棺のある菖蒲池古墳に入れられた。二つの石棺のふたの形が蝦夷と入鹿の邸宅を模して造られたようだ。これで蘇我氏の墓は判明した。蝦夷と入鹿の邸宅があった甘樫の丘はこんもりした林になっている。そこから大和三山や飛鳥宮が望めた絶好な立地だったようだ。

 今回スキ-部の友人4人との旅であった。平等院も素晴らしかったが長谷寺が好評であった。今丁度牡丹の花盛りで11メ−トルもある11面観音像は圧巻であった。長谷寺は古くからの名刹で紫式部や清少納言も訪問している。この時代の人々の憧れのお寺で蜻蛉日記や更級日記の女流作家も訪ねている。長谷寺詣では古くからの憧れであった。長い階段を上った山腹に本堂があり御本尊が祀られている。古の趣たっぷりの名刹は一度は訪ねてみたい。

 もう一つは飛鳥寺の飛鳥大仏だ。蘇我馬子が建立した日本最古の寺であるが仏師鞍作止利の製作と言われる飛鳥大仏は思いのほか品格があり美しく、観る者に感動を与える。やはり仏様は神々しく美しいものでなければならない。仏教の伝来とともに仏像が作られていくが、この時代にこんな美しい大きな仏像が作られたのはその後の日本文化に大きな影響を与えた。

 飛鳥寺の横に入鹿の首塚があるが、雨が降っており写真が上手く撮れなかった。たぶん手振れが原因であるが、全体がぼけてしまった。何故かその一枚だけがぼけており、入鹿の怨念が感じられ、どうか心安らかに成仏くださいと祈る思いだ。

 男4人の旅の楽しみはお酒が入った食事会だ。私はほとんど飲めないが3人は酒豪だ。店の主人の勧めもありスケジュ−ルに無かった新薬師寺を翌日訪ねることになった。病み上がりの身には大変有難く思わず病気平癒を祈願してしまうほど素晴らしいお寺だった。それは次回に回します。

 今回ご同行くださったスキ-部の皆様本当に有り難うございました。良き思い出となりました。

長寿社会

 4月17日長野からの帰り道に大宮の先輩を訪ねた。昨秋シャインマスカットを届けた時、春には山菜を届けますと約束していたのだ。フキノトウ、アサツキ、野沢菜の新芽の菜の花を持って訪ねた。ところが家は留守で静まり返っている。何となく嫌な予感がしたが玄関にメモを残し家に帰った。昨年お会いした折、随分痩せてやっと歩けるような衰えたった。85歳だと言われていた。

 家に着くと「大宮の遠藤さんから電話があったよ!なんか遠藤さんが大変らしい。」予感が当たってしまった。遠藤さんは日大のバレ−部出身で健康そのものであった。82歳までゴルフをされていたし我が家へも何遍も遊びに見えた。遠藤さんみたいな老後を過ごしたいと思っていた。

 電話をすると「もう駄目みたいなんです。1月から入院しているのですが歩くことはできなくなりました。食事も摂れません。チュ−ブで流動食を入れている状態です。救いは本人が痛がらない事です。」奥さんが言われる。「スポ−ツマンで健康そのものの遠藤さんがどうしてそうなってしまったのですか?」「原因が良く分からないのですが運動しなくなったからじゃないですか?」信じられない思いである。現役時代も大変良くしていただいたし、技術者らしい誠実な人柄が大好きだった。晩年少しは恩返しが出来たのが救いである。

 今健康な人でもどうなるかは分からない。健康長寿を願うがいつ何時寝たきりになるか分からない。長寿社会のリスクである。普通に生活できることに感謝し日々大切に過ごしたい。

愛染かつら

 長野県別所温泉で開かれた同級会へ行って来た。上田駅から松本方面へ入ったところにある古い温泉だ。ここのお湯はさすがに良く、名湯の一つだ。826年平安時代に天台座主慈覚大師円仁により発見されたようで映画「愛染かつら」の舞台でも知られている。川口松太郎が逗留し「愛染かつら」の小説を書きあげ上原兼・田中絹代が主演したロマンス映画だ。北向観音境内に愛染かつらと呼ばれる銀杏の大木がある。周囲5.5mもある縁結びの木である。

 愛染かつらとは大木の隣にある愛染明王堂から付けたそうだが、若き医師と美貌の看護婦の恋愛物語で大ヒットした。「恋愛物語の舞台であっても別れる所と書くわね!別所温泉は。」幹事の同級生の女性が言う。夜の宴会の後、管理人をしている同級生の告白で盛り上がった。好きだった女性が三重から来たのだ。「彼女には毎年ジャガイモを送っているが去年は不作で小さいものしか送れなかった。残念だった。」「そう、こんなちいちゃなジャガイモだった。ジャガイモの大きさで想いの強さを判断するからね!」「そうか、どおりでジャガイモに気合が入っているわけだ。もうすでにジャガイモを蒔いたそうだ。」同級生の畑でジャガイモ作りに励む管理人をからかった。今年は大きなジャガイモを送れるように頑張る筈だ。老いらくの恋の行方もジャガイモ次第だ。頑張れ-とエ−ルを送る。今回参加した同級生は22名と少なかった。だんだん出席者も少なくなる。

 翌日は長野の田舎を回った。牟礼の畑ではまだ「ぶどう」は芽が出ていない。落ちて散らかっている袋をかたずけ、アサツキを採り山小屋へ向かった。まだ山道には雪があり車では登れないので「まだらおの湯」に車を止めて歩いて山小屋へ向かった。途中マレットゴルフ場に沢山のフキノトウが出ていた。残雪の中に出ておりポリ袋に一杯採った。丁度良いお土産になる。今年は去年より2週間は季節が早い。五月の連休の頃では山菜は遅いかもしれない。ちょっと心配である。

 山小屋ではスト−ブを焚き部屋を暖め1泊素泊まりをした。弟が水を出しておいてくれたので不自由はしなかった。庭に落ちている枯れ枝を集め掃除をし山開きの準備をした。今年もお世話になります!同級会の席で「今年は農業に力を入れるので皆さんよろしく!」と挨拶している。この陽気だと今年の農作業は早まるかも知れない。

ページトップへ